【新日本の設立者】 山田顕義 【小ナポレオン】


近代日本の礎を築いた功労者

yamadaakiyosihi
萩市中心地から少し離れた場所に「顕義園(けんぎえん)」という名の公園があります。
昭和54年(1979)、日本大学建学90周年を記念して整備された公園です。

敷地の正面には立派な銅像。
日本大学を設立した山田顕義です。

軍事・政治・教育と多方面に大活躍した人物なのですが、その功績に対して知名度はとても低い気がします・・・。
そこで今回は“山田顕義”について書いていこうと思います。

高杉晋作も認めた軍事的才能

タイトル、書き出しを読んで山田顕義という人物は非常にすぐれた人物だというイメージが湧いたと思います。
もちろんとてもすぐれた人物なのですが、幼少期はそうでもなかったようで「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」なんていわれていたこともあったようです。
それに見かねた父親は安政5年、顕義が15歳の時松下村塾に入門させました。
吉田松陰にとって最年少の門下生でした。

幼少期は出来が良いとは言えなかった顕義ですが、その後は倒幕の志士として頭角を現していきます。
文久2年12月、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ね、蛤御門の変(禁門の変)、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争、などに加わり、箱館戦では24歳の若さで新政府軍の陸軍参謀兼海陸軍参謀として、官軍を勝利に導きました。
その戦術は「用兵の妙、神の如し」「神算鬼謀の将」と称えられるほどでした。
あの高杉晋作は亡くなる前「奇兵隊を引き継ぐ人物は?」と問われて、軍神・大村益次郎の次山田顕義にの名前を挙げたそうです。

日本を守るため、法典整備に尽くす

軍人として活躍した顕義は維新後、東京鎮台司令長官、司法大輔、陸軍中将、参議、工部・内務・司法の各卿などを歴任。
明治4年には岩倉使節団に随行しました。
そこで見たのは欧米諸国に文明国と認めてもらえない日本の現状、そして外国からのさらなる支配の危機・・・。
日本が国際社会に認められるためには憲法制定と法典の編纂が急務だと痛感した顕義は帰国後、国を守るためには軍よりも日本の国体をふまえた法と教育が必要だと訴えます。
そのときは政治的な論争に破れ実施をみなかった顕義の法典。
ですが、各国の法学者からは高い支持を得ることができ、日本の国際化に寄与ることとなったのです。
そして初代司法大臣として入閣し、病気のため辞職するまで伊藤、黒田、山県、松方の四代の内閣で司法大臣を務めました。

顕義が編んだ法典の精神は、現在の法律の中にも引き継がれています。
軍人として、さらに政治家としての才能に長けたことから山田顕義は「小ナポレオン」と呼ばれるようになったのです。

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日本大学の学祖

政治家として法典の整備に尽力するだけでなく、顕義は教育にも力を注いでいました。
明治22年、自ら日本法律学校(後の日本大学)を創立。
次いで翌年國學院(後の國學院大學)を設立するなど教育を重要視していました。
日本大学は彼を学祖とし、現在でも毎年学生たちが萩市の顕義園を訪れているそうです。

謎につつまれた最期

数々の功績を残した顕義ですが、49歳という若さでこの世を去ります。

死因は脳溢血といわれています。

が、担当した医師が随分あとになって事故死だったと告白しているそうです。

さらに昭和63年、日本大学がおこなった調査によると、顕義の頭蓋骨に刃物で突いたような骨折痕が見つかったそうです。

いったい彼の身に何があったのでしょうか。
真相は謎に包まれたままです・・・。


山田顕義という人物について簡単に書きましたが、少しはその偉大さが伝わったでしょうか?
知名度は低い山田顕義ですが、2012年にはTVドラマ化されました。
そして実現には至っていませんが、映画化の話もあったようです。

日本の近代化に貢献した山田顕義。

彼の功績がもっと多くの人々に認知されるようになれば良いなと思います。


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