今年のゆるきゃらグランプリは「ぐんまちゃん」に決まりましたね。
今回はそのぐんまちゃんを輩出した群馬県の初代県令(県知事)である「楫取素彦」についてお話しようと思います。
吉田松陰の盟友
文政十二年(1829)、萩の藩医、松島家の次男として生まれた楫取は十二歳のとき、藩校明倫館の儒者・小田村吉平の養子となります。
そして藩校明倫館に学んだあと、江戸藩邸勤めに出ます。
そのとき萩から来た1歳下の松陰と出会い、親しくなります。
さらに松陰の妹、寿と結婚したことでその絆はますます深くなります。
その後萩に戻った楫取は明倫館で教えるようになりました。
一方、松陰は安政の大獄により萩の獄舎に入れられてしまいます。
多くの塾生が一時的に離れていきましたが、楫取は手紙を交わし続けます。
その間には松陰と楫取の意見が対立し、松陰からはある塾生への手紙に「楫取の考えとは合わない。絶交せよ」と書かれるほどにまでになったこともありました。
しかし、江戸送りが決まった松陰から松下村塾の後を託されたのは、松陰が罪を負ったときも支え続けた、友人で義理の兄弟でもある楫取でした。
松陰の信頼を受け松下村塾の後事を託された楫取ですが、松陰の処刑後は藩主の側近として忙しくなり松下村塾に長く関わることができませんでした。
1865(慶応元)年、楫取は藩主の命で九州に逃れていた5人の公卿を訪ねます。
そのとき坂本龍馬と知り合います。
楫取はそこで萩藩士の木戸孝允に龍馬と会うよう勧める手紙を書き、そのことが薩長同盟実現のきっかけとなったのです。
維新の志士から新政府の立役者へ
慶応三年(1867)幕府からの追及を逃れるために藩命で「楫取」と改名します。
「楫(かじ)を取る」としたのは、祖先が「萩藩御船手組(おふなてぐみ)」であったことにちなむそうです。
楫取は明治維新政府に「参与」として仕えましたが、すぐに免官し帰郷しました。
しかし、新政府は楫取のすぐれた才能を放っておくことができず、楫取は再び新政府に仕えることになります。
こうして足柄県参事・熊谷県権令・熊谷県令を経たあと、明治九年、第二次群馬県初代県令となったのです。
楫取が活躍するかたわら、内助の功で夫を支えた寿子でしたが、中風症から胸膜炎を併発。
明治十四年(1881)一月に亡くなりました。
その後、未亡人となっていた文子が名前を美和子と改め楫取と再婚したのです。
楫取が県令を務めていたころ、萩で1人の元塾生による松下村塾の塾舎保存の声が上がるようになりました。
荒廃した塾舎を見かねた楫取は1889年(明治22)、松陰没後30年を迎える年に、その保存とともに松陰の功績をたたえるよう呼び掛けました。
そしてその翌年には塾舎の保存工事が実現し、松陰を祀る小さな祠も建てられました。
時代が大きく変わっても、楫取は松陰に終生変わらぬ思いを抱き続けていたのです。
在任期間は熊谷県時代を含め十年に及びました。
産業、教育面などに力を注ぎ、群馬県の基礎を作り上げ「名県令」と称されました。
その後、明治17年元老院議官に転任。同二十年男爵。 宮中顧問、貴族院議員などを歴任し、大正元年三田尻(山口県防府市)で亡くなりました。
享年84歳でした。
現在は碑が建っているだけですが、最近整備されて東屋も立てられました。
自然に囲まれたのどかな場所です。市内観光とあわせて足を運んでみてはいかがでしょうか。
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来年の大河ドラマ「花燃ゆ」では大沢たかおさんが演じられます。放送が楽しみですね。