【松下村塾 四天王】 吉田稔麿 【才気鋭敏な「陰頑」】


松陰に愛された俊才

松陰神社のわき道を少し進んだところに碑があります。
松下村塾四天王の一人、吉田稔麿の誕生地です。
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「栄太初めてくる」

吉田稔麿は天保12年(1841年)、足軽・吉田清内の長男として生まれました。
名は栄太郎。23歳のとき稔麿と改名しました。
久保五郎左衛門が教えていたころの松下村塾に通っていましたが、13歳のときに江戸藩邸で働きだします。
そして3年後、萩に帰ってきた稔麿は松陰主宰の松下村塾で最初の塾生である増野徳民に誘われ、入門します。
安政3年11月25日の松陰の日記には「栄太初めてくる」と記されており、松陰はその才能と努力を高く評価したといいます。

松陰は稔麿を「陰頑」と評しました。これは稔麿が無駄口を利かず、謹直重厚な人物であることを評価してのことです。

観察力の高い現実派

稔麿は人物評が好きで、こんな逸話が残っています。
稔麿がある絵を描きました。
そこに描かれていたのは、裃を付け端然と座っている坊主、鼻ぐりのない暴れ牛、木刀、そして隅にただの棒きれ。
山県有朋がその意味を問うと稔麿はこう行ったそうです。
「この坊主は久坂だ。久坂は医者のせがれだが、廟堂に座らせておくと堂々たる政治家だ。この暴れ牛は高杉だ。高杉は中々駕御できない人物だ。この木刀は入江のことだ。入江は偉いが、まだ刀までとはいかない木刀だ。」
山県が「この棒きれは誰だ。」と聞くと、稔麿は「それは、お前のことだ」と言ったそうです。

安政5年(1858年)松陰が野山獄に入れられると、稔麿は家族・親族一門を守るために松陰との接触を断ちます。
薄情だと思われるかもしれませんが、この頃の松陰は非常に危険な人物と見られており、仕方のないことだったのです。
そんな稔麿も松陰が江戸に送られる際には隣家の塀の穴から見送ったといわれています。

松陰の教えから生まれた屠勇隊

文久3年(1863年)高杉晋作の創設した奇兵隊に参加します。
奇兵隊は農民などで組織された部隊ですが、その後、稔麿は被差別部落民の登用を藩に建言し屠勇隊(とゆうたい)を創設します。
これは当時の社会通念からすれば驚くべきことなのです。
松陰の「草莽崛起」に基づいた考えで、上級武家出身の晋作にはなかったでしょう。
屠勇隊はのちに奇兵隊と統一され、長州が他に先駆けて差別撤廃政策を導入する原点となったといわれています。

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無念の最期 池田屋事件

元治元年(1864年)6月5日、京では尊攘派志士達が池田屋に集結していました。
偶然、この頃江戸から使いに来ていた稔麿も参加していました。
会合中、突然新撰組が襲撃しきます。世に有名な池田屋事件です。
この時、稔麿は一度長州藩邸に戻っていました。
しかし異変を聞きつけた稔麿は周囲が止めるのも聞かず池田屋に舞い戻って行ったのです。
そしてそこで討ち死にをしたと言われています。

同士を見殺しにはできない稔麿の陰頑さ。松陰から高く評価されたその性格が死期を早めてしまったのでしょうか。
享年24歳でした。

品川弥二郎は後に「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」と語ったと言われています。

大河ドラマ「花燃ゆ」では瀬戸康史さんが演じられます。
活躍が楽しみですね。


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